076-441-6674
info@toyosakainari.com
User login
Facebook
Twitter
Google+
YouTube
Instagram
豊栄稲荷神社
✕
  • ホーム
  • 新着情報
  • 祭り・取組み
  • 各予定表
  • 豊栄稲荷の神々
  • お知らせ
    • 奉賛会からのお知らせ
  • 文化活動
    • 日本海文化悠学会
    • 古事記を読む会
    • 茶道
  • 奉賛会
  • お問合せ

豊栄稲荷神社と前田正甫公のあゆみ

豊栄稲荷神社の創建

1704
1945
1974
1975
2015
1704

富山藩初代藩主 前田利次公が 延宝2年(1674年) 7月7日に江戸城内で倒れ息を引き取られたため同年9月に前田正甫公は25歳で家督を継ぎ、 父の方針を受け継いで富山藩の経済発展に尽力されました。
有能な人材を他藩から招き、鉱山の開発や製鉄業などあらゆる方面において富山藩の財政安定への道を模索されました。
また、正甫公は製薬業にも関心を持たれ、売薬を広められた殿様としても有名です。
正甫公が所持しておられた「反魂丹」は江戸城で腹痛に苦しむ大名に与えて速効があったことから、諸藩の求めに応じて全国的に販売をするようになり、それまで農業に偏っていた富山藩の産業を見直し、商業や産業の発展を目指す政策をとられました。

豊栄稲荷神社は前田正甫公が財政難に陥っていた富山藩を何とか豊かな藩になって貰いたいという思いから、京都の伏見稲荷大社より御分霊を頂き、勧請された稲荷の大神をお祀りする神社として、富山城に程近い藩の蔵の側に創建されました。 豊栄稲荷神社の石碑には「殖産振興 守護の宮」とあります。
いつの時代も豊かに生きたいと願う人々の思いがあり、そのために奮闘してきた人々の努力があります。

1945

富山大空襲とは、1945年8月1日から8月2日にかけてアメリカ軍が富山県富山市に対して行った空襲です。
その後、広島、長崎へ原子爆弾が投下され、富山大空襲の日から13日ごに日本は終戦を迎えました。

富山市に投下された爆弾は、12,740発。

目標区間は、現在の富山城址公園付近のエリアでした。また、このエリアの99.5%が焼失し、民家は100%破壊されました。そのときの大空襲でそれまでの社殿が炎上し、戦後の復興の間、長く仮殿のまま鎮座されることとなります。

1974

豊栄稲荷神社

昭和49年10月に県下の企業・商店などからのご支援・ご奉賛により現在の呉羽山の地へと移転されご鎮座されることとなりました。

新しい社殿の設計には富山県文化財専門委員・文化財修復技術員として腕を振るわれた、松本太作先生にお願いし、復興された朱色の外見は緑に囲まれ外観の美しさも際立たせてくれます。

1975

鳥居

昭和50年には鳥居も建てられました。

2015

いま言えることは、正甫公の時代に富山藩の諸産業の振興がが図られ、その延長線上に今の私たちの生活があるということです。多くの方々が切に願われた繁栄と平和の精神を神道を通し、より身近に感じていただけましたら幸いです。

前田正甫公と反魂胆

■それは江戸城での小さな出来事だった
元禄3年(1690)、富山藩主前田正甫公が江戸城に参勤した時のことです。諸大名が居並ぶなかで、三春城主秋田河内守が突然腹痛を訴えられました。正甫公が印籠から反魂丹を取り出して勧めたところ、たちまち腹痛が治まったのです。あまりの薬効の早さに驚いたのが、その場にも居合わせた諸大名たち。「自領内で販売してもらえないだろうか」と申し入れが相次ぎました。他国との交流を嫌った藩政時代としては異例のこと。これが越中売薬の起源と言われています。

■「魂を呼び戻す」というので反魂丹
14世紀の初めごろ、松井源長という武士の母が重い病気にかかりました。いろいろ手を尽くしたものの、症状は悪化するばかり。あとは神仏に頼るしかないと、立山に登り一心に祈願しました。するとその夜の夢の中で阿弥陀如来から妙薬の作り方を授かったのです。
急ぎ帰ったものの、ひと足ちがいで母は亡くなっていました。嘆き悲しみながらも源長は薬を調合、母の口に注ぎました。するとどうでしょう。母は生き返り、病気も治っていました。阿弥陀如来に「まだ来るのは早い」と言われ、不動明王に「早く返れ」と背をたたかれたそうです。つまり「身体に魂を返してくれる薬」というのが反魂丹の名の由来です。(とやまの民話より)

富山の薬、発展のルーツ。


そして、豊栄稲荷神社の秘話

藩政においては父の方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘した。金沢藩の支藩として成立した富山藩はゆえに、越中国内の旨味の良い土地は金沢本藩がおさえていた為、10万石といえど財政は豊かではなかった。正甫は新田開発や治水工事を行って生産力を向上させることは勿論、自領の低い農業生産力に頼るだけではない、その他の殖産興業に努めることで、藩財政を豊かにしようとした。但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、産業奨励などにも積極的に行なった。また、正甫は病弱であったとされ、ゆえに薬学に興味を持ち、(史料的な裏付けは無いが)江戸城腹痛事件で名をあげたとされる富山の反魂丹などの製薬業を奨励して諸国に広め、越中売薬の基礎を作った。

祭り・取組みのご案内

豊栄稲荷神社で取組んている、年間行事をご覧いただけます。

すべて
祈 祷
人生儀礼
おみくじとお守り
神前結婚
参拝案内
奉賛会
奉賛会

奉賛会

奉賛会
ご祈祷

ご祈祷

祈 祷
参拝案内

参拝案内

参拝案内
神前結婚

神前結婚

神前結婚
おみくじとお守り

おみくじとお守り

おみくじとお守り
人生儀礼

人生儀礼

人生儀礼

豊栄稲荷神社のWEBサイトが新しくなりました。

「只今、調整中にてご迷惑をおかけしております。」

奉賛会の方々

人々の平和がすべての神の願いです。

  • Home
  • 祭り・取組み
  • 由 来
  • お知らせ
  • 奉賛会
  • お問合せ
© All rights reserved. TOYOSAKAINARI-SHINTOU