富山藩初代藩主 前田利次公が 延宝2年(1674年) 7月7日に江戸城内で倒れ息を引き取られたため同年9月に前田正甫公は25歳で家督を継ぎ、 父の方針を受け継いで富山藩の経済発展に尽力されました。
有能な人材を他藩から招き、鉱山の開発や製鉄業などあらゆる方面において富山藩の財政安定への道を模索されました。
また、正甫公は製薬業にも関心を持たれ、売薬を広められた殿様としても有名です。
正甫公が所持しておられた「反魂丹」は江戸城で腹痛に苦しむ大名に与えて速効があったことから、諸藩の求めに応じて全国的に販売をするようになり、それまで農業に偏っていた富山藩の産業を見直し、商業や産業の発展を目指す政策をとられました。
豊栄稲荷神社は前田正甫公が財政難に陥っていた富山藩を何とか豊かな藩になって貰いたいという思いから、京都の伏見稲荷大社より御分霊を頂き、勧請された稲荷の大神をお祀りする神社として、富山城に程近い藩の蔵の側に創建されました。 豊栄稲荷神社の石碑には「殖産振興 守護の宮」とあります。
いつの時代も豊かに生きたいと願う人々の思いがあり、そのために奮闘してきた人々の努力があります。
■「魂を呼び戻す」というので反魂丹
14世紀の初めごろ、松井源長という武士の母が重い病気にかかりました。いろいろ手を尽くしたものの、症状は悪化するばかり。あとは神仏に頼るしかないと、立山に登り一心に祈願しました。するとその夜の夢の中で阿弥陀如来から妙薬の作り方を授かったのです。
急ぎ帰ったものの、ひと足ちがいで母は亡くなっていました。嘆き悲しみながらも源長は薬を調合、母の口に注ぎました。するとどうでしょう。母は生き返り、病気も治っていました。阿弥陀如来に「まだ来るのは早い」と言われ、不動明王に「早く返れ」と背をたたかれたそうです。つまり「身体に魂を返してくれる薬」というのが反魂丹の名の由来です。(とやまの民話より)
そして、豊栄稲荷神社の秘話
藩政においては父の方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘した。金沢藩の支藩として成立した富山藩はゆえに、越中国内の旨味の良い土地は金沢本藩がおさえていた為、10万石といえど財政は豊かではなかった。正甫は新田開発や治水工事を行って生産力を向上させることは勿論、自領の低い農業生産力に頼るだけではない、その他の殖産興業に努めることで、藩財政を豊かにしようとした。但馬からタタラ技術を導入して製鉄業を創始し、産業奨励などにも積極的に行なった。また、正甫は病弱であったとされ、ゆえに薬学に興味を持ち、(史料的な裏付けは無いが)江戸城腹痛事件で名をあげたとされる富山の反魂丹などの製薬業を奨励して諸国に広め、越中売薬の基礎を作った。
「只今、調整中にてご迷惑をおかけしております。」